真実以外のもの

真実以外のもの

ポストコロナ

真実は、別次元にあり、対立する虚偽もまた、別次元にある。それは、既存の真実ではなく、既存の虚偽でもない。
それが、The other than truthという観念だ。
進化論によって、人が猿から進化したと信じていたものが、人は突然別次元から来て、定着したというのが証明されて真実になったら、
これまで信じてきたものは、虚偽になる。神が人を作ろうと作るまいが、何も問題ない、何故ならThe other than truthによって還元するからだ。
歴史的な時間的継続上においては、真実と虚偽は、同一の時間軸上で互いに対象性を繰り返しているように見せかけているだけだ。
そうなると論理的には、現在さえ、真実であるのか疑わしくなる。1は、永遠に1であるのか、0は、果たして、永遠に0で良いのか、という問いかけが表象化される。それと同様に真実そのものは、永遠に真実そのものであるのか。
さらに突き詰めると、真実や虚偽が終わりのない永遠という観念に当てはめる必要は本当にあるのかとさえ考えられうる。
1は、永遠に1である必要はないのではないか、論理的な結論付けそのものが、The other than truthに還元するのなら、時間的概念も、永遠という観念も考える必要はないかという事である。
そのようにして、The other than truth は、既存の対象に対し様々な問いかけを生む。
そして、The other than truthを対象に当てはめれば、既存間の対象差異が明白になる。
それは、真実の他は、虚偽であるという二元性を超えた対象が、The other than truthにおける対象となる。
だから、The other than falseは、必要ない、何故なら、The other than truthに還元する事で、The other the truthに内包するからだ。
つまり、The other than truthの内包する特性によって、対象が決定され、形式立てられるのである。
そして、その形式は、真実と虚偽の二元性から成立する形式とは異なる全体像を創出する。
その発端は、対象を真実と定義した場合、その対象以外は、真実以外という他対象を主対象化するとどうなるかが考察のポイントになり、そのプロセスによって、The other than truthを決定する。
換言すると、主対象を他対象に仮想化することで、主対象として見せかけていながら、主対象は、そのまま、主対象としての優位性を保持する事が出来るのかという事である。つまり、それは構造化ではなく、認識の時間軸上の秩序立てである。それは、すなわち、真実が真実でなくなるという事を意味する。それだからこそ、The other than truthとなる。

ここで一つの考察をする。
命題:Cogito ergo sum.
この命題に当てはめると、理解は容易である。
われ以外は、真実ではないのかという事であり、われ以外は、虚偽になるのであろうか。我の外にあるのは、虚偽ではない、仮想的に真実を保持させた対象があるのではないかという事である。
つまり、”故に我”以外という対象は、二元には帰結しない。真実か、虚偽かという二元性ではない。
仮想的に見せかけた真実は、単対象の真実か虚偽かではない範疇になる。別対象が創出され、The other than truthという対象を創出し、それのプロセスが、The other than the truthという論理に変容する。
真実の外が、真実、それならば、真実という対象は、真実ではなくなり虚偽となるか、あるいは、異質性のある二つの真実の共存しか存在しない事になる。
我を思うが、あるいは思うまいが、真実は、内になり、同時に外になる。
それは同時に、われ思う、ゆえに我ありによって、真実という論理を提示する必要なくなる事を意味する。

対象のThe other than truth、これが論理的対象になるべきである。
その対象が、見せかける事で真実として認識するプロセス、それをどのように捉えるかである。
そして、それは、対象化を壊すように時間軸上に変容する。
答えは、単純だ。
内からくれば、対象は還元し、外からくれば、対象の構造的フェーズを考慮しなければ、二元的分離対象化する。
真実か、虚偽かではない、二元性を壊す。
それが、The other than truthである。

2025年6月26日 東京





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真実は、別次元にあり、対立する虚偽もまた、別次元にある。それは、既存の真実ではなく、既存の虚偽でもない。
それが、The other than truthという観念だ。
進化論によって、人が猿から進化したと信じていたものが、人は突然別次元から来て、定着したというのが証明されて真実になったら、
これまで信じてきたものは、虚偽になる。神が人を作ろうと作るまいが、何も問題ない、何故ならThe other than truthによって還元するからだ。
歴史的な時間的継続上においては、真実と虚偽は、同一の時間軸上で互いに対象性を繰り返しているように見せかけているだけだ。
そうなると論理的には、現在さえ、真実であるのか疑わしくなる。1は、永遠に1であるのか、0は、果たして、永遠に0で良いのか、という問いかけが表象化される。それと同様に真実そのものは、永遠に真実そのものであるのか。
さらに突き詰めると、真実や虚偽が終わりのない永遠という観念に当てはめる必要は本当にあるのかとさえ考えられうる。
1は、永遠に1である必要はないのではないか、論理的な結論付けそのものが、The other than truthに還元するのなら、時間的概念も、永遠という観念も考える必要はないかという事である。
そのようにして、The other than truth は、既存の対象に対し様々な問いかけを生む。
そして、The other than truthを対象に当てはめれば、既存間の対象差異が明白になる。
それは、真実の他は、虚偽であるという二元性を超えた対象が、The other than truthにおける対象となる。
だから、The other than falseは、必要ない、何故なら、The other than truthに還元する事で、The other the truthに内包するからだ。
つまり、The other than truthの内包する特性によって、対象が決定され、形式立てられるのである。
そして、その形式は、真実と虚偽の二元性から成立する形式とは異なる全体像を創出する。
その発端は、対象を真実と定義した場合、その対象以外は、真実以外という他対象を主対象化するとどうなるかが考察のポイントになり、そのプロセスによって、The other than truthを決定する。
換言すると、主対象を他対象に仮想化することで、主対象として見せかけていながら、主対象は、そのまま、主対象としての優位性を保持する事が出来るのかという事である。つまり、それは構造化ではなく、認識の時間軸上の秩序立てである。それは、すなわち、真実が真実でなくなるという事を意味する。それだからこそ、The other than truthとなる。

ここで一つの考察をする。
命題:Cogito ergo sum.
この命題に当てはめると、理解は容易である。
われ以外は、真実ではないのかという事であり、われ以外は、虚偽になるのであろうか。我の外にあるのは、虚偽ではない、仮想的に真実を保持させた対象があるのではないかという事である。
つまり、”故に我”以外という対象は、二元には帰結しない。真実か、虚偽かという二元性ではない。
仮想的に見せかけた真実は、単対象の真実か虚偽かではない範疇になる。別対象が創出され、The other than truthという対象を創出し、それのプロセスが、The other than the truthという論理に変容する。
真実の外が、真実、それならば、真実という対象は、真実ではなくなり虚偽となるか、あるいは、異質性のある二つの真実の共存しか存在しない事になる。
我を思うが、あるいは思うまいが、真実は、内になり、同時に外になる。
それは同時に、われ思う、ゆえに我ありによって、真実という論理を提示する必要なくなる事を意味する。

対象のThe other than truth、これが論理的対象になるべきである。
その対象が、見せかける事で真実として認識するプロセス、それをどのように捉えるかである。
そして、それは、対象化を壊すように時間軸上に変容する。
答えは、単純だ。
内からくれば、対象は還元し、外からくれば、対象の構造的フェーズを考慮しなければ、二元的分離対象化する。
真実か、虚偽かではない、二元性を壊す。
それが、The other than truthである。

2025年6月26日 東京










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